自分を楽しむ、50歳のポジティブ離婚プロジェクト

資金ゼロ、シェアハウスでの別居生活6年間を経て円満離婚。へこたれ50代のライフシフト記録です。

60代の新居探しプロジェクト … その①

 

兄から母の一周忌の連絡がきました。

お経をあげるだけの簡単な形式なので、無理しなくても良いと言われましたが、やはり帰郷することにしました。もう他には仙台に帰る理由がなくなり、寂しいものですね。

 

あっという間の一年。

 

葬儀の最中も悩みまくっていた当時の私に言ってあげたい。

「何とか勇気出して踏み出しましたよ。大丈夫かどうかはまだわかんないけどね…笑 」

 

 

 

さて、問題の新居探しですが、

重い重い腰をあげて動きはじめています。

 

まずは、1年以上前から気になっていた物件を改めて検索して最新情報をチェック。

同時にインテリアプランなど楽しいこともちょいちょい進めています。

 

↑ 新居はグレージュをベースにしたい♡

 

 

ここで改めて、私の(60代自営業)のハードルを整理しますと

 □ 年収の問題 (50代の頃より更に貧乏)

 □ 正社員じゃない (アルバイトしてる自営業)

 □ 年齢

 □ 保証人がいない

 

 ⇓ これらをクリアするための傾向と対策

 

 □ 家賃が低い / 敷金礼金ゼロなど

 □ 空室が多い物件 (駅から遠いとか)

 □ 年齢不問、高齢者歓迎の物件

 □ 保証人不要 (保証会社など)

 

 

 

一方、私なりのワガママ条件もありまして

 □ コンセプトが明確なこだわり物件

 □ 空間のセンスや設備 (バス/トイレはぜったい別)

 □ 方角 (西日NG、ベストは北東向き)

 □ シェアや程よいコミュニティ

 

 

私が狙っていた物件を久々に調べてみたところ、、、以前は予算オーバーの上に空室なしだったのですが、今は賃料も下がって空室も出ていたので、チャンスありそう!

高齢者歓迎かつコミュニティあり、グッドデザインも受賞している物件で、主要駅からバス利用ですが、実際に訪れてみたところパワースポット的な良い雰囲気の立地だったので、今のところ 他の候補は考えられません。

 

現在、運営会社さんへコンタクトを取り、一歩一歩進めているところです。

まだ無茶がきいた50代の頃とは違って、“勢いで何とかなる” …とは全く思えないので、様子をみながら、おそるおそるです。

 

 

今のシェアハウスに入居する時は、もともと仮住まいのつもりだったし、単身暮らしに何がどのくらい必要なのか見当もつかなかったので、その後、不用意にモノが増えて雑然としてしまいました。3年前、仕事場からデスクトップモニター2台が自宅へやって来た時点で、インテリアどころではなくなってしまったし(笑)

 

今度の住まいはこの失敗を活かしつつ、もう少しオトナな雰囲気にしたいと思っています。予算は抑えたいし、DIYも得意じゃないけど、家財道具付きのシェアハウスではあきらめていた箇所もちょこっと頑張りたいです。

 

進捗また報告したいと思います。

 

 

 

突然、シェアハウスの退去命令が・・・

 

既に桜の季節となってしまいましたが、毎年の愉しみ … ヒヤシンスの画像を残しておきます。

今年はお花屋さんに良いモノが探せず、初めてお取り寄せにチャレンジしたのですが、送料かけてでもオーダーする価値アリでした。とっても立派なヒヤシンスが咲いて大感激!香りもずっと楽しめましたっ!

 

↑ 手前のつぼみも全て咲いた時は迫力でした

 

 

さて、タイトルにも書きましたが、いろいろと変化や事件があり、、、これからどうなることやらという感じです。

 

 

まずは、お仕事について。

このまま続けていくのは難しいと感じつつ、ずっと決断できずにいましたが、お仕事のひとつ…エシカルブランドの業務を3月末で辞めさせていただきました。以前、トリプルワークしているという話を書きましたが、現在、空間デザインの仕事依頼はないので、実質、インテリアの販売業務(パート)だけになりました。(パート契約の方は時間制限があるため、新たな収入源を確保していく必要性があるのですが、そちらは完全に未定です)

 

決断した最大の理由は、自分のラストステージをきちんと考えるための余白が必要な時期だと感じたから。エシカルブランドを応援していきたい気持ちは変わらないのですが、メンタル的にも体力的にも余裕がなく、とても前向きなビジョンを描けるような状況ではありませんでした。

 

仕事を失い困った時に救ってくれた友人には、嫌われてしまった(呆れられた?)と思いますが、自分を優先させていただきました。ずっと呼吸が浅く、目覚めた瞬間からプレッシャーを感じてしまうような毎日で、自分自身を完全に見失っていました。後悔はありません。

 

 

実は、図らずも3連休できることになり、こうしてブログを書けています。本当に久しぶりの自分時間。

昨日は、山田智和監督の映画『四月になれば彼女は』を観に行き、深夜のベッドで、藤井 風さんの『満ちてゆく』を聴いていました。

さまざまなフレーズと音が胸に響き渡って、ココロの奥にあった残骸を溶かし去ってくれるようで、、、涙が溢れました。ゆるぎない深い愛につつまれ自分を取り戻す体験をした淡路島の情景と感覚が呼び戻され、気づくと深い呼吸をしていました。感謝。

 

全ては大きな愛のストーリーであり、計らいなのだと、引き戻していただけました。

本来の自分に戻っていく道のりの中で何が浮上してくるのか今は全くわかりませんが、自分の中にある宇宙に耳を澄ませていきたいと願います。

 

 

 

そして、もうひとつの事件が住居の問題です。

先週、シェアハウスの運営会社から、私の住むシェアハウスを4月末で手放すという旨のインフォメーションがありました。その時は、また運営会社が変わるのね、と安易に受け取っていたのですが、、、数日前に封書が届きまして、その内容が、“半年以内に退去するように” というショッキングな通達でした。

 

5月以降に別の運営会社から正式に通達があるらしく、退去せずに残れる可能性もゼロではないのですが、ここは “背中を押してもらった” と思って、動き始めたいと思っています。

10年前、家族との住まいと訣別した時とは違い(あの時は本当に無謀でした…笑)、最低限の引越し資金はプールしてありますが、問題はよき物件との出逢いです。家賃や内装や形態など…私なりの希望が多いのですが、それより私の「年齢」と「収入」で審査が通るのか、が大問題です。

 

 

今後、続報をアップしていきたいと思っていますので、皆様の経験談やお知恵もお貸しいただけたら幸いです。。。

 

 

 

 

逃げ出したかったバイト生活も、1年経ち

 

半年もたないと思っていた新しいお仕事(家具の販売)が、、、気づけば1年。

 

今日はどんな恐怖の瞬間が待っているんだろう … と呼吸が浅くなり、

仕事場にたどり着くまで何度もトイレに駆け込んでいた私。

 

プロとしてインテリアデザインをやっていた頃とは、時間のかけ方も、求められる内容も、かなり違うことや、出来ない自分への苛立ちから、以前はどこか上から目線で見ていたように感じます。

 

未知の環境への適応に、人の3倍時間を要する自覚がありますが、

[ 不安<やりがい ]へと、ここに来て急に何かが変化しました。

 

接客の最後に名前を聞いて下さったり、素敵コメントを残して下さったり、満たされた表情で去っていくお客様のご様子に、期待以上のおもてなしが出来たのかな …と、ハートがほんわかする瞬間を経験するようになりました。

スタッフの皆さんの中に、自分が違和感なく存在できているようにも。

 

 

・・・とはいえ、まだまだ難しいリクエストにはアタマ真っ白になるし、気合いを入れないと仕事には迎えませんが、今となっては、この有り難い境遇に感謝する気持ちでいっぱいです。

 

あきらめなくてよかった。。。

 

カフェ モーツアルト 自由が丘店の夏メニュー  友人と久しぶりの再会を楽しんだ一日。
 
 
覚えることでいっぱいいっぱいだった頃には想像もつきませんでしたが、、、、販売って、お客様の満たされた様子を目の前で見て感じることができるしあわせな仕事だなと。ハートとハートが共鳴した後は、愛で満たされた気分になります(すぐに次の接客になっちゃうのですが… )。
 
それに、頭がフル回転の5時間の立ち仕事は、リモートでデスクワークしていた頃より、とても健康的だと感じます。(どうやらホントに定年もないようなので、続けられるうちは頑張りたいと思ってマス!)
 

↑ Paper Back Cafe 神田神保町にて 週末の静かな神保町へ、娘と

 

先日、娘(31)の就職が決まったと連絡がきて、娘もお洋服の販売のお仕事を始めることになったようです。私以上に環境に適応するのが大変な彼女が、人生はじめての職種と正社員採用。大変だと思うけど、チャレンジを心から応援したいです。配属される店舗も私の職場のすぐ近くになりそうです。

 

先週、渡したいモノがあるからと久しぶりに会って、書店とカレーを楽しみました。(私の骨粗しょう症を知った娘のお友達が自然療法の栄養スープをプレセントして下さり)

平日と違ってゆったりと時間が流れる静かな神保町。以前、娘が住んでいた奈良に訪問した時の安らかな気持ちを思い出させてくれました。

 

 

なんだか、いろんなことが新しい段階へうつったように感じています。

この暑さが落ち着いたら、少しほっと出来る時間を楽めるかな〜。

手首の手術を終え、健康と人生について 

 

半年前に骨折した左手首の金属を除去する手術のため、再び二泊三日で入院していました。

母の状況を知る前から手術の日程は決まっていたのですが、その後、病院の都合で一週間先送りとなり、母を見送ってから … という天の計らいなんだろうなと感じていて、実際、そのようになりました。感謝です。

 

超高齢者の場合は、固定の金属を除去せずそのままという場合もあるようですが、体内に異物があるのは良くないようで(母の大腿骨骨折の金属もそのままでした)、いつかやるなら早くスッキリしたいと思っていました。

 

 

病院から渡された除去した金属とボルトの画像、

思った以上に大きくて、こんなのが入っていたのかと思うと、無事、除去できてよかったと思いました。静かに過ごしていれば痛みはほぼありませんし、明日、デスクワークから再開予定です。

 

 

今回、子育てママとオトナ女子の四人部屋だったのですが、聞きたくなくても同室の方のお話が筒抜けで、いろんな人生があるんだなと思ってしまいました。

 

特に、お隣の方とソーシャルワーカーさんとの会話には驚かされるばかりで、昨年、海外から一時帰国してすぐに骨折して歩行困難となって障害者手帳を持つ身となり、今回、再び骨折されて、今後の相談をされていらっしゃいました。

そのような悲痛な人生の変化を、まるで世間話のようなトーンでお話されているご様子に、小心者の私は面食らってしまったのですが、いま考えるに、そのように自分を捉えないとツラすぎるからなのかもしれないし、もっと波乱万丈の人生模様を知っている方なのかもしれません。

 

つい先日も、心臓のたいへんな手術をした昔の仕事仲間と会ったのですが、病気知らずだった自分が、突然、障害者一級の身になってしまったという話を聞きました。大手の優良企業で働いていたから今のところ待遇は恵まれているけれど、今後どうなるのかを鑑みつつ、リタイヤのタイミングも考えていると言っていました。

 

数年前までリタイヤや終活について、全くリアリティがなかった超呑気者の私でしたが、骨折のアクシデント以降、いろいろ考えさせられるような場面を次々と天から与えられています。

 

若い時から大手の会社に興味がなかった私でしたが、いま大手企業でパートタイムもさせていただくようになり、確かに自由はないけれど、体力のある企業だからこその待遇もあって、別な意味で自分の中の評価も変わりつつあります。たま〜に、やり甲斐を感じるような仕事もできるようになったせいもあるかもしれません。わからないものですね。

 

自分に与えられたライフワークと、生活のための仕事、、、どちらも大事ですが、心身の健康あればこそ。そして、自分の人生の責任を取れるのは、自分だけ!

 

 

 

〜〜〜〜〜

 

〈手首骨折や入院に伴う備忘録〉

1. 骨折2日後に全身麻酔での手術。総合病院に二泊三日で入院。全治3ヶ月。

☐ 入院費用の支払いと返金手続き

健康保険組合(私の場合は文芸美術国民健康保険組合)に連絡し、限度額適応認定証の申請書類の郵送を依頼。入院費の支払い額は年収によって違う(年収370万円まで→57,600円/月)。月をまたぐ入院は避けたほうが良い。私の場合は、一旦、3割負担の金額(約15万円)をクレジットで支払った後、5日後に限度額認定証を病院へ持参し、現金で返金を受けた。(限度額適応認定証の有効期限は、7月末)

 

☐ 生命保険(全国共済)の請求

共済組合に連絡、状況を説明し共済金請求の申請用紙を依頼。郵送されてきた診断書用紙を病院窓口に提出して依頼。診断書の発行には3週間程度かかり、費用は4,000円〜5,000円。診断書の他に、事故状況の報告書、支払い請求書などを揃えて郵送で提出した。数日後に共済組合から追加提出分の連絡があり、領収書などを郵送した。最初の提出から振り込まれるまで8日間と早い対応だった。

 

2. 骨折から半年後に同じく全身麻酔での手術。二泊三日で入院。

☐ 入院費用の支払い

限度額適応認定証があるので、今回の支払いは限度額のみ。自治体の健康保険へ変更を計画していたが、入院費の支払いが終了した月末に行うことにしている。

☐ 生命保険(全国共済)の請求

入院前に共済組合へ連絡、前回入院〜今回の状況を説明し、申請用紙の郵送を依頼。前回請求した後の通院分も請求可能との説明を受ける(180日以内まで)。近日中に病院へ診断書を依頼して手続き予定。

母を見送ったあとの心持ち

 

実家の母を見送りました。

4月に卒寿(90歳)を迎え、もう買い物に行くのも料理するのもホントに大変だし、

こんな感じでいつまで生きるんだろね、いつ逝っても全然悔いはないのに…と言っていた母。

以前、体調を崩して入院した時に、臨死体験らしき経験もあって、

向こうの世界に行くのはぜんぜんコワくない!と、日頃から申しておりました(笑)

 

近頃は、二週間に一度くらい「大したことじゃないけど話きいて〜」と、定期的に電話がかかってきて、「お迎え来るまでもう少しガンバってねー!」ってな感じで終わるパターンでした。

 

↓娘が想像で描いた ハットを被ったお茶目な母

 

母のラストステージがどんなものになるのか、、、8年前、老々介護で父を自宅で見送った時とは異なる状況ではありましたが、よき道が示されると信じ、受け入れようと覚悟していました。

 

1ヶ月ほど前に体調を崩して兄がかかりつけ医に相談、その後、救急で総合病院へ入院して約一週間でした。容態が急変し、駆けつけた兄も看取ることはできなかったのですが、誰もが納得の最期でした。母と同居していた兄ファミリーと、私と娘で、一気に納骨まで済ますことができました。

 

父の時も感じたことでしたが、魂が抜けたあとの顔や姿は、私が知っている煩悩いっぱいの生前とは違い、聡明でスッキリとした、“神に仕える者” という表情だったんです。住職が仰って下さった通り、肉体を離れた魂は、お釈迦様のもとで修行をするために昇っていくというお話もしっくりきました。

私たちが見ていた母は、現世の目的を全うすべく宿った仮の姿であって、目の前の崇高なお姿の母が、本来の魂の品格なのだと気づかされるようでした。

 

 

兄からの電話で母の体調を知らされてから、一度だけヘンな夢をみました。

公衆電話で話を終えた父が、「ばあちゃんは病院でもう亡くなったよ」と伝えてくれる夢だったのですが、、、母が病院で面倒みてもらえて良かったという安堵の気持ちと、先に逝ってる父が伝えてくれるなんて笑っちゃう、と思いました。

(その日、歩いてる時にてんとう虫が顔にぶつかってくるというおまけも)

 

実際、その日に母は入院し、兄たち家族に過度の負担をかけることなく病院で亡くなることが出来たので、やはり父がサポートしてくれたのだろうと信じています。

 

 

私に沢山の葛藤のタネを与えてくれた母。

超マイペースで半径10メートル的な生活だった母。

昭和だったから、物差しで叩かれたり、玄関から出されたり、まあいろいろありました(笑)

お互い勝気で合わなかったし、趣味嗜好も違うし、母のようになりたくないエネルギーから、外の広い世界に憧れて飛び出した私でしたし。

以前、ブログでも母に口答えした時の話を書いた気がしますが、母が生きている間に、私の中に抱えていたマインドの変容もあり、母との魂の約束は既に果たせたと感じていました。

 

 

まだ一周忌もあるから仙台には行くだろうけど、両親がいなくなり行く理由がなくなってしまうと思うと、地元の根っこが途切れてしまうようで、なんとも言えない寂しさが漂ってきます。

兄と私も、決して仲が良い方ではありませんでしたが、長い長い年月、母と同じ屋根の下で過ごしてくれて、今は感謝の気持ちしかありません。納骨が終わってから、兄ファミリーにも心からの感謝の気持ちを伝えることができました。

 

先月の卒寿のお祝いに悩み、花が好きだった母に、厳選したプリザーブドフラワーを送ったのですが、「すごく気が利いてる♡」と喜んでくれて、何度もお礼を言われました。最後に良いプレゼントが贈れて、私も幸せでした。

 

 

煩悩から解き放たれた母の崇高な表情をみて、私の目の前に現れている新しい葛藤も、もっと俯瞰して、感謝の気持ちでのりこえなきゃと思っている次第です。